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2020年1月17日 ゲスト・山田パンダ(シュリークス、かぐや姫他)~後編~


【放送内容】

*《かぐや姫》が最初にオリコンのシングル盤チャートにランクインしたのは、パンダさんのペンによる4枚目「僕の胸でおやすみ」だった。アルバム「かぐや姫さあど」からのシングルカットだったが、当時南こうせつがパーソナリティーを務めていたラジオ番組「パックインミュージック」で何気にかけたアルバムB面1曲目に、「僕の…」を遥かに上回るリクエストカードが届く。その曲が「神田川」だった。

*週を追うごとに、横ばいの「僕の…」を後目に「神田川」へのリクエスト葉書は嵩を増す。当然ながらレコード会社側は一刻も早く「神田川」をシングルで発売することを目論む。しかしリーダー・南こうせつはなかなか首を縦に振らず、「僕の…」のランク上昇を示唆しながらレコード会社側を押しとどめ続けていた。

*数か月後シングルカットされた「神田川」は、チャートを垂直に駆け上がる勢いで大ヒットとなる。

「待たせに待たせて、ぴゅ~ん!だった」(山田パンダ)

「凄かったですよ、あの時は。フォーク系の曲は、その前に拓郎の『結婚しようよ』とか出ていたけど、『神田川』は異常だった。ビューン!だもん」(東郷昌和)



*フォークソングのファンのみならず、誰でも知っている曲となった「神田川」はその後草刈正雄・関根(現・高橋)恵子主演で映画化。そして後続のシングル「赤ちょうちん」「妹」もヒットの後、秋吉久美子主演で映画化される。尚パンダさんは「妹」に出演している。

「シュリークスからの流れの中で、僕は1位になるのは夢だったから、(「神田川」の大ヒットは)やはり嬉しかったね」(山田パンダ)



*かぐや姫は1975年に解散(その直後「吉田拓郎・かぐや姫コンサート インつま恋」出演のため一夜のみ再結成)、その後ドラマ出演やソロシンガーとしての活動、渥美清への楽曲提供(浅草日記・高橋信之編曲)や山本コータローとのデュオを経て、内山修らと《パンダフルハウス》を結成。

「いろんな動きをやった後に、『やっぱりグループがいいな』って思った」(山田パンダ)



*ミュージシャンとして活動しながら、若手ミュージシャンのプロデュースにも興味がわいたパンダさんは、80年代に入りロックバンド《SALLY》をスカウトしプロデュース。サキソフォンをフィーチャーした編成から《SALLY》は〈第二のチェッカーズ〉とも称され、デビュー曲「バージンブルー」がヒット。このプロデュース業は多忙を極め、疲弊したパンダさんは暫し音楽の世界から距離を置くことを決める。

「47歳にして、『俺は自分のやりたいことしかやらない、本当にやりたいことをやる!』と」(山田パンダ)

そう決めたパンダさんの前に開いた道は、〈子供が元気な社会づくり〉だった。保育士としての活動と、その経験に基づく本の出版ののちパンダさんのもとに講演の依頼が殺到。「子供が元気な社会が一番」というテーマで、全国で講演活動を展開する。そして「子供サポーター活動」として、道徳教師として小学校の教壇にも立ち、また児童養護施設などをサポートするための「きらきら基金」を2015年に設立。ランドセルの贈呈などの寄付活動を続けている。



【エピソード】

*《シュリークス》に参加した頃、フォークグループのウッドベース奏者といえば北山修の人気が高かったが、パンダさん自身が影響を受けたのは《ザ・リガニーズ》の内山修だった。また≪モダンフォーク・フェローズ≫でウッドベースを弾いていた景山民夫の仕草にも惹かれるものがあったという。

*《パンダフルハウス》のデビューライブを企画しながら、どう盛り上げるか内山修に相談すると、「パンダさん、踊りましょう!」アコースティックユニットでありながら、オープニングはメンバー4人全員一列に並び、ジグソーの「スカイハイ」で踊るというステージになった。

「アコ(の楽器)のリハーサルより踊りの方が時間かかったの。身体固いから(笑)。内山さんが上手いんだ。楽器も全部弾くうえに踊りも上手い」(山田パンダ)




【使用楽曲】

♪僕の胸でおやすみ(山田パンダ)※ソロ・バージョン

♪神田川(かぐや姫)

♪バージンブルー(SALLY)

 ※作詞はHAIR1969のメンバーだった故・さがらよしあき(相良好章/ルー)。

♪せいいっぱい(山田パンダ)



〈資料他協力〉山田パンダカンパニー









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